4月1日の朝、鈴村健一のラジオを聞いて衝撃を受けた「本を読むということ」
私の家にはテレビがない。ニュースは朝のラジオで十分だ。耳だけ傾けていればいいから、せわしない朝には丁度いい。
長らくNHKラジオの「マイあさラジオ」を愛聴していたが、残念ながら3月末で終了してしまった。後続番組を聞こうにも、私の癒しだった福田天気予報士が担当から外れてしまったため、NHKラジオを聴きつづける理由は、もうそこにはなかった。
鈴村健一の新ラジオ番組 TOKYO FM「ONE MORNING」
そこで4月からは、声優・鈴村健一がパーソナリティを務めるTOKYO FMの新番組、「ONE MORNING」を聞くことが、新しい朝の習慣となった。
2019年4月1日(初回放送!)の、「ベスト3総研」のコーナーを聞いていた時だった。ちょうど7時20分頃のことで、急いで化粧をしないと間に合わないタイミングだったにも関わらず、思わず手を止めてラジオに聞き入ってしまった。
「我思う、ゆえに我あり」の解釈
この日は、鈴村健一が「影響を受けた偉人」のベスト3を紹介していた。
第三位がデカルト、第二位がニーチェ、第一位がアインシュタイン、という順位だったのだが、
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」について、自分なりにこのように捉えている、と語っていた。
・自分が思っているから世界がある
・つまり、自分が思わないこと、見ないことは存在しないこととほぼ等しい
・だから、自分が見たこと、感じたことによって世界は構成される
(よって、真実がどうであれ、自分がどう思うか、どう感じるかが大切なのだ。)
それを聞いて、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
といっても、解釈の内容それ自体に対してというわけではない。
しかも、一度読んだだけでは理解しきれず、内容を掴むまで数回繰り返し読んだ。
そのうえ、本に線を引き、要点をノートにまとめたりもしていたので、かなり深く読み込んでいるつもりだった。
それなのに、「我思う、ゆえに我あり」からは、私は何の感銘も受けなかった。
むしろ、神の存在証明の論拠として使われているに過ぎないという印象で、「言葉自体は有名なのに、実際にはあまり存在感がないんだな」ぐらいの感想だった。
同じ「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉から、
・「自分が思うことで世界が構成されるから、自分がどう考えるかが大切だ(よって、前向きに考えるようにしよう)」と受け取った鈴村健一。
・「ふーん、なるほど」ぐらいにしか思えなかった私。
この違いは、どこから来るのだろう。
本当の意味で「実になる読書」とは
鈴村健一は、こうも言っていた。
「いろんな偉人の話を聞いて、学問として言葉を捉えるのではなく、自分の人生においてこう解釈したら人生がラクになる、楽しくなると思って読んだ」
一方、私はどうだったか。
本の内容を正確に理解しよう、知識を取り入れよう、という意識ばかり働いていて、内容を追うことだけで満足してしまっていた。
立派な名言や諫言を知識としてストックしていても、それが考え方や行動に活かされていなければ、何も知らないのと同じことだ。
そのためには、得た知識を俎上に載せ、自分なりに「いかに日常生活に活用できるか」まで踏み込んで考えない限りは、決して自分の血肉とはなりえない。
今まで読んできた本、蓄積してきた知識の中で、果たして自分なりの考察で咀嚼し、人生に活かせているものがどれだけあるだろうか。
奇しくも、その日はエイプリル・フールだった。
今まで、私が「読書だと思っていたもの」の嘘が、朝早々にして、暴かれたのだった。